別名:キュルノンスキー (Curnonsky)
食通の王(PRINCE DES GASTRONOMES)として有名
1872年アンジェに生まれる。
アンジェの聖モリーユ校で学び、パリで文学を専攻する。
文学とジャーナリスムが盛んなりし頃。
ルイ・バストゥールや作家のエミール・ゾラ、アルフォンヌ・アレー、コレット、ウィリーなどと出会う。
1900年〜1925年にかけて『ル・ジュルナル』紙と『ル・マタン』紙の記者として活躍。
また『美食の国、フランス』(28巻)、『アトラス・ドゥ・ラ・ガストロノミー・フランセーズ』(1938年)
『アンフォルチューヌ・デュ・ポ』(1946年)、『フランス料理とワイン』(1953年)、『フランスの地方料理』(1953年)
『文学と美食の思い出』など多くの小説と美食家向け書物を著わすほか、戯曲も6作ほど書いている。
1907年ミシュランの顧問となり、ドライバー向けガイドの編集に携わる。
現代では、ごく当たり前であるが旅と美食を結びつけた一人者である。
1908年3月2日、ビバンダム(BIBENDUM)というペンネームで、
運転手向けに『ル・ジュルナル』紙の「ミシュラン」コーナーと
『ラ・ヴィ・パリジェンヌ』紙の「グルメ欄」に記事を投稿。
1922年にフランス各地の美食をめぐる旅行をし、以降美食関係の著述に没頭する。
おおよそ10年間で65ほどの著書を残している。
1923年、サロン・ドートンヌに「第九芸術」という名のサロンができたが、キュルノンスキーが
パリの食通が集うこのサロンの食事を10年間にわたって仕切った。
『パリ・ソワール』紙の編集者の発案で、1927年5月16日投票によって
キュルノンスキーが 「食通の王(PRINCE DES GASTRONMES)」 に選ばれた。
1928年には、「会食者の王(ROI DES CONVIVES)」 になり、
同年『美食アカデミー(ACADEMIE DES GASTRONMES)』を設立。
現在のような食に関するガイドブック、新聞紙上のグルメコーナーを確立した創始者として知られるようになる。
1952年80才のとき、80軒の有名レストランが彼を自分のレストランに招待。
これらのレストランは、彼のために特別席をいつもキープし、
その席に『食通の王であり、フランス料理の擁護者であり、すぐれた描写者であり、
そしてこのレストランの名誉賓客であるキュルノンスキーこと、エドモン・サイヤン氏』と記したプレートをつけていた。
1956年7月22日パリにて84才で死去。
彼の業績を不滅にするために、美食アカデミーの後援のもと、
1953年4月29日に「モリス・サイヤン、レ・ザミ・ドゥ・キュルノンスキー」
が設立された。会長はヴァンサン・プレル、アンドレ・プリナと引き継がれ、
1985年からは国立科学研究所研究部長であり元国会議員であった
ミッシェル・シィが務めている。
パリの17区には、「キュルノンスキー通り」と名づけられた道がある。
また1994年3月24日よりソミュールのホテル学校内部にキュルノンスキーの
博物館もできた。
レ・ザミ・ドゥ・キュルノンスキーでは、毎年大規模な晩餐会を催している。
その際に配られるリモージュ製の皿にはメニューとキュルノンスキーの肖像が印刷されている。
また別の晩餐会も新しいレストラン紹介のために開かれる。
